藤子不二雄先生のマンガの、今と昔の表現の違い。
藤子不二雄先生のマンガの表現が、今と昔で大きく変わってるのをご存じでしょうか。
ゆうきゆうです。こんにちは。
今回は、僕がもっとも尊敬するマンガ家、藤子不二雄先生のマンガを紹介しましょう。
さて先生の作品では、たぶんたいていの方が、「ドラえもん」を読んだことがあるのではないでしょうか。
そんな藤子先生、「SF短編集」という、大人向けのSFマンガも描きました。
自分にとってはバイブルのような作品なのですが、つい最近、再び買って読み返してみたところ、
以前に持っていたものとは表現が違う部分がありましたので、比較してみたいと思います。
ご紹介するのは、「ポストの中の明日」という話。
主人公である少年が、「次の日の新聞を読める」という特殊能力を得てしまうことから、始まる物語です。
未来が読めるわけで、一見便利なんですが、実際はそこまで幸せではありません。
宝くじも買えなかったり。
火事が分かっても、どうにもできなかったり。
最終的には爆弾犯にまで間違えられてしまいます。
結局、自分自身だけが何かを分かっても、何にもならないという切ない状況になります。
さて、今回のメインはこのあと。
彼はこのことを、マンガ家であるおじさんに相談します。
「そりゃあれだな、心理学で既視感とか、熟知感とかよばれてる現象だ」
このあとが重要です。
「精神分裂症の初期によく見られる症状だよ」
「じゃあぼく、狂ってるの!?」
「まぁまぁ、ふつうの人にもよくあることなんだ」
結構ダイレクトに来ます。
ちなみに正確には「精神分裂病」(現在は統合失調症)なんですが、まぁ、そこはどちらでもいいかもしれません。
やはり「精神病である」ということがインパクトが強かったのか、最近のマンガでは、こうなっていました。
1コマずつ行きます。
「これは錯覚なんだ。」
ソフトに来ました!
確かにこの「既視感」という精神症状。
「間違った認識」なわけで、もんんんんのすごくソフトに言えば「錯覚」です。
間違ってはいません。
短くなりすぎて、フキダシの余白が大きすぎる気がするんですが。
そして次のコマです。
「じゃあ、ぼく、へんなの!?」
「狂ってる」⇒「へん」
こっちもソフトに来ました!
すんごくソフトに来ました!
でも!
でもですよ!?
なんで「錯覚」とソフトに伝えたにも関わらず、主人公は、
「じゃあ、ぼく、へんなの!?」
と、全力で驚いているのか。
「錯覚」と言われたなら、そこまで驚く必要ないじゃないですか。
たとえば、錯覚といえば、こういうものがありますが。
「ほーら、上と下の直線は、実は同じ長さなんだよー。違う長さに見えるのは、錯覚なんだよー」
これにたいして、
こういう反応しないですよ普通。
普通なら「あー、錯覚なんだー」で終わると思うのですよ。
やはり「精神分裂症と言われたから驚いている」わけで、その前をソフトにしたなら、ここでの驚きを説明するセリフにしないと。
ただ言い換えただけだから、こう不自然になってしまう。ムキー。
そして最後にこう言います。
「まぁまぁ、だれにもよくあることなんだ」
「普通の人にも」⇒「だれにも」
やはり「普通の人」と言うことで「普通じゃない人」みたいなのを感じさせちゃうのがダメだと思ったのかもしれません。
いずれにしても、色々と言葉に気を遣うものなのだなと。
まぁ、この言葉を変更することで、この作品のすばらしさが何の影響を受けるわけでもないんですが。
それでも、何か微妙にさびしくなってしまった感じでした。
ちなみにせっかくなので、この話の結末まで紹介します。 (結末を知っても、読めば十分楽しめます)
彼は「友達と一緒に遭難してしまう」という未来が分かっていつつも、友達を止めることができず、
だからといって見殺しにもできず、一緒に遭難してしまいます。
しかし途中で、明日の太陽を見ることができ…
必死に走った結果。
遭難から抜け出すことができたのです。
色々な苦難がありつつも、最終的に、努力と前向きさによって、救われる。
根底に流れる藤子不二雄先生の思想は本当に素晴らしいなぁ、と思いつつ、今回の紹介を終えたいと思います。
ちなみに自分のバストへのこだわりが、普通の人よりも強かったということに気づいたときの、僕の気持ち。
みなさま本当にありがとうございました。
(コメントでのご感想、ご指摘なども本当にありがとうございました。少し変更いたしました)
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